ナミビアの砂漠を自転車で旅する魅力のひとつ。それは紛れもなく、道中での「出会い」です。町と町間が60kmから100kmも離れており(町とは言っても、宿一軒だけあるような“町”も)、その間にはお店も何もないため、歩行者に会うことはほぼありません。ですが、私たちのような自転車旅人と出会うことは意外にも度々ありました。
ヨーロッパや日本のような先進国で自転車旅人とすれ違うことと、広大な異国の大地でばったり鉢合わせになることは、感覚的に大きく違います。なぜか、彼らとは出会った瞬間からお互いすでに知っているような感じがするからです。それはきっとその場所にあるものが、澄み切った真っ青な空や照りつける太陽、振動を伝って感じる地面の感触など、とてもシンプルな要素で成り立っているため、それを同じ感覚として体感していることが言わずと共感できるからなのかもしれません。
情報量の限りなく少ない自然のなかでは、頭の中がとてもクリアになっていきます。食べること、水を飲むこと、体を動かすこと、目の前の風景に思いを馳せること、眠ること。そんな単純なことだけを考える時間は、慌ただしい日常のなかではほとんど与えられないように思います。
アフリカを知るために地元南アフリカを出発した仏教徒のニル、中国から3年かけてナミビアに辿り着いたアルゼンチン人のニコ、毎年1ヶ月の休暇と取って自転車で旅するオランダ人夫婦。例え一緒に過ごした時間が短くとも、そういった研ぎ澄まされた時間を共有した仲間とは、自然と深い絆で結ばれるように感じます。今となっては、彼らは世界のあちこちに散らばっているためそう簡単に会える距離にはいませんが、いつかその時がきたら、昔からの旧友のような再会ができることを確信できるのです。
ナミビアでの2ヶ月間の旅のなかで、道中出会った自転車旅人は10人。(結果的にはナミビアがアフリカの国々のなかでもっとも自転車旅人との遭遇が多い国でした!) と、私たちの予想よりも出会いが多かったのですが、それでもその数は非常に少なく、彼らとの出会いはとても稀です。
そのため、ナミビアでの出会いの大半は、「人」ではなく「野生動物」でした。たまに見かける道路標識には、シマウマ、ゾウ、キリンなどのイラストが描かれています。自転車走行中やテントで寝袋にくるまっているときに感じるのはほとんどの場合、人間が作り出したノイズではなく、動物たちの静かな気配でした。
動物園の人工的な檻のなかで単体で暮らす動物しか見たことがなかった私にとって、果てしなく広大な大自然を自由に生きる野生動物たちとの出会いは、とても衝撃的なものでした。彼らも私たちと同じく家族と戯れ、群れをなし、食べ物や気候に合わせて行動をしています。私はナミビアで本物の野生動物と出会うまで、動物がこれほどまで美しく、生命力溢れるものだとまったく知りませんでした。
ある日の午後、いつものように未舗装道の一番状態のいい部分を瞬間で選びながらぐねぐねと走行していると、道路脇を私と平行してダチョウの群れが走っていることに気が付きました。長くて細い足を機敏に動かして砂漠を駆け抜ける彼らの疾走感と、自分が連帯するような強い興奮を覚え、ダチョウを目で追いながら私もスピードを上げました。
するとその途端、砂の深い部分にタイヤがはまり、一瞬でバランスを崩して激しく転倒してしまいました。頭から砂の地面に叩きつけられ、顔を上げたときにはもうダチョウたちは米粒ほど小さくなっていました。その時は体の痛みから、ダチョウに気を取られて走行に集中していなかった自分を咎めましたが、今となっては笑い話です。怪我をしたことよりも、ダチョウと一緒に走った高揚感が、3年以上経った今でもかすかなあたたかい記憶として残っています。
現在、人よりも野生動物に出会う場所というのは、残念ながら世界で本当にわずかな場所にしか残っていません。それは砂漠や奥深い山岳や南極のような人が暮らしていけない条件の場所で、それ以外は人間と人間が所有する家畜で溢れ返っているのが現状です。(自然保護されたサファリ区域や登山地帯は、人がそこへ集中することで状況が急速に変わりつつあるでしょう)。
この野生動物の生体数の極端な減少や絶滅が、決して自然現象ではないことはあらゆる研究から明らかになっています。今、この瞬間も、ナミビアではダチョウが大地を駆け回り、アフリカゾウが家族で水浴びをしている。その当たり前の事実を、日々の生活のなかで私たちがどれだけ意識できるかどうかで、彼らの運命は変わっていくのだと信じています。